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私の自動車五十年史 第二十一回

2018-06-15

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『私の自動車五十年史』 第二十一回  代表取締役会長 河村益孝

 

前にも記したが、三度目の千日回峰行を試みた正木寛順大阿闍梨の住居とした その道場は、床の間付きの六畳二間に4,5畳の居間があり、別に六畳板の間の仏間に押し入れ、物置、トイレから成っていた。
 
佛に仕える為の道場であるからその必要があるか否かは不明ではあるが、野中の一軒屋、何の遮りもないのに冬の南側より射し込む暖かな太陽はトイレと押入れで遮られた。
 
代わりに東側の四間、北側二間に大きなガラス戸が琵琶湖全景を見渡せ、日の出を見るにも最も良いロケーションの地であった。
 
台所は入り口から裏に抜ける通路に面して押入れ、三連のかまど、洗い場、井戸、物置が西側に連なっていた。
 
井戸の深さは、琵琶湖の湖面に連動していて、春先から梅雨にかけ琵琶湖の水位が上がると柄杓で掬えるほどで、渇水時は当然深くはなるが、干上がること はなかった。
 
そもそも琵琶湖の距離は三〇メールと離れず、深い井戸の湧水と異なり、衛生面ではどうであったかは知る由もないが、十数年過ごしたが何も無かった。
 
住居としたこの地域は典型的な農村地帯。自宅に風呂を持ち、銭湯に行く習慣 など皆無。
 
戦争による被災で大阪より仕方なく移り住み、電灯と風呂も無く、更には村里からかなり離れた一軒屋。
 
ご近所付き合いしようにも出来る筈は無く疎外感は自然に強くなっていった。
 
村里から電気を引くには高額であるため両親はあきらめていて、一年間はロ ーソクとランプでの生活で済ませていたが、母の兄である伯父が見るに見かねて その費用を出し、電灯が灯るに至った。
 
その時の感激は相当なものであったろう。何分四~五歳の幼少年期、喜んだ家族の顔はしっかり覚えている。

 

(続く)


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