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私の自動車五十年史 第十四回

2017-08-15

カテゴリー:私の自動車五十年史



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『私の自動車五十年史』 第十四回  代表取締役会長 河村益孝

 

昭和二十四年八月の末、長い闘病生活に区切りをつけるかのように旅立った妻の後を追うように、まだ日も浅く初七日が済むや否やに、僅か八歳になったばかりの三男益孝の、死亡率の高い日本脳炎という法定伝染病への羅患。

隔離病棟への入院とは・・・いったいどうしたことかと父は何度も悩んだことかと思う。敗戦という国家的悲嘆の中、一家五人が逃げ延び、苦しい中にも戦争のない平和な生活が戻ってきたばかりの最中にである。

長男(十九才)が勤めている県庁を弟の看病に当たるために休んでくれることで、父は一家の柱として日々の糧を得るために働くことに専念することができた。

毎日、益孝の命だけは・・・と祈る気持ちで次々と襲う苦悩の中で働いたのであろう。母の闘病の折から、五歳上の兄が食事の世話等できることから分担したが、面倒なことはすべて父がしてくれた。

三ヶ月余りの病院生活から自宅に帰った翌年の正月、神棚にはいつも通り鏡餅も飾り、小さいながらも門松も置き、悪運を追い払うかのように新年を祝った。

めったに口にすることのない、お頭つきの鍋を食べさせてくれたのを今でも忘れることはない!
甘く炊いた黒豆、ゴマメ、たたき牛蒡、棒鱈と小芋、にんじん、くわい、レンコン等の煮付けたもの等々、男にしてはいろいろ作って食べさせてくれた。

今日のように、 調味料始め、美味しく仕上げるための材料豊富な時代と異なり、ないないずくしに、見よう見まねだけのやもめ所帯。
不味い等と我儒は言えず、何度かの食事はただ黙々として食べたこともあった。

懸命に作った父からすれば、何の反応もないのが不甲斐なく、「どうだ!美味しいか?美味しかったら美味しいと言え!」が常に口から出てくる言葉で、「不味い!」とは言えず、「美味しい」と返していたのである。

(続く)

 

 

 


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