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私の自動車五十年史 第十二回

2017-06-15

カテゴリー:未分類



 

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『私の自動車五十年史』 第十二回  代表取締役会長 河村益孝

母の里は堅田にあり、その実兄が消防団をはじめ当地の役場とも深い縁があったので、母の遺体は堅田の霊安所で茶昆に付された。葬式は人里離れた借家である我が家で営まれた。

人が訪ねてくることのない洪しい我が家が急に活気づいたように、多くの知り合いや親戚が慰問を兼ねて手伝いに来てくれ賑わった。

残された父と三人の子供。とりわけ小学校二年生の幼い私を残して母が亡くなったことに対する慰めや悼みの声を次々と掛けて貰うことが嫡しくて、初めて迎える葬式の意味、母の死の意味が十分に分かっていなかった。

僅か二、三日間程のことで有ったが、葬式が終わって、一人去り二人去り、今まで居た多くの人が居なくなったら急に淋しくなり始め、そこで初めていとしい母には「二度と会えぬ」と言う死の意味を知り、二人の叔母の前で激しく泣いた。

泣くべき時に泣かずに居た私が、葬式が終わって、帰り支度をして居る人の前で泣いたものだから、またまた涙を誘った。

夏も終わり、朝夕の涼しさが漂い始めた四、五日を喪に服し、既に始まっていた二年生二学期の学校に通うべく朝、目を覚まして食膳に向かおうとした際、「何故か頭が痛くて眠い」と、いつも通りでないことを長兄に訴えた。

母の葬儀で長く休んだことも手伝い、一日や二日延びたところで・・・との思いからか、兄は「それならそのまま寝ていろ」と言ったのでまた床に戻った。

これが生死を境にする恐ろしい日本脳炎と称する法定伝染病であるとは露も知らず、兄が寝ていろと言った時に、兄が頭を傾げながら「頭が痛くて眠い」と私が言った言葉を二度繰り返しつつ、『日本脳炎』と違うかなぁと言ったのを聞きつつ深い眠りに就いてしまった。
(続く)

 

 

 


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