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私の自動車五十年史 第十一回

2017-05-15

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『私の自動車五十年史』 第十一回  代表取締役会長 河村益孝

 
 
敗戦という国家的な破綻によって、安定した生活は一変、奈落の底に落とされた国民は相当数に上った。
軍需施設や工場が集積した都市部は空爆によって広範囲に消失し、また多くの犠牲者を伴った。
非戦闘員も含めるとこの戦争で亡くなった人は三百五十万人にも上るという。戦争の残酷さ、非常さを思い知らされた経験であった。
 
自宅が消失したことだけでなく、父が勤務していた会社も消失し、従業員の方も亡くなったり、商品をつくる材料も手に入らなくなり、父の勤めていた大阪の会社は解体、失業となる。
 
戦時中は「欲しがりません、勝つまでは」と国民は忍耐・我慢を重ねてきたが、戦争末期の実態は日常生活も極度に困窮していた。
敗戦後に至って生活は更に困窮を極め、農家の人達も政府への供出で儒ならず、その日の生活の糧を求めて苦汁を舐めた。
 
父は知り合いを頼りに職を求め、日雇い的収入を持ち帰ったが、おおよそ知れたもので五人の家族を満たすことは出来ず、僅かに手元に残った母の着物を一枚一枚売ってその場を凌いだ。
元々体が丈夫でなかった母が、戦後のそうしたごたごたで苦労が崇り、床に伏せることも多く、私が七歳となった昭和二十三年四月の入学式には、母に代わり父が式に臨んでくれた。
 
三人兄弟の末っ子で、甘えたい年頃であったが、いつも寝込んでいる母には無理が言えず、その分、五歳年上の兄が私の面倒を実に良く見てくれた。
母の体調が一時的に回復し、洗濯や縫い物、食事の用意など主婦の勤めをしてくれたことは有ったが、それは僅かの時であったと思う。
 
小学校に入学して一年と少しの後、猛暑のお盆も過ぎ、朝夕ようやく涼しくなり始めた八月二十八日、 母は帰らぬ人となった。

 
(続く)

 

 


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