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私の自動車五十年史 第九回

2017-03-15

カテゴリー:未分類



 

 

『私の自動車五十年史』 第九回  代表取締役会長 河村益孝

一家は大阪に住まいし、父は大阪では一、二を競う薬問屋に勤務し、真面目で長年の勤続で位も上がり、間もなく役員になる一歩手前にまで昇進。
西日本一帯の薬屋さんに新薬の売込みで家を留守にすることが多く、一度出張に出ると一週間から半月程というのが常で、母は春休みや夏休み、冬休みになると親元である堅田に子連れでよく帰ったと言う。

親元は堅田では名の知れた料理旅館で、伯父さん(母の実兄)は地元消防団の分団長も勤め、人々の人望も厚く、いつ訪ねても人の出入りが多い、落ち着きのないざわざわした家であったが母にはそれが良かったのと、兄嫁との仲のよさも手伝ったのだろう。
出張となると大阪難波の駅に父を見送り、その足で実家に帰るという有様で、当時としてはお手伝いさんを抱え、結構裕福な家庭であったと聞く。

私の生まれた昭和十六年までは、きな臭いながらも日本の領土である台湾から樺太までの長い国土は安定していて、そこそこ繁栄していた。
十六年十二月八日から戦争に入り、父も徴用を受け満州の前線に衛生兵として出兵した。
が既に四十才を超えていたため、僅かの期間で内地に戻った。

十九年、二十年と戦局は報道の内容と異なり、軍需工場や大都市は艦載機からの爆撃を受けることも度々であった。
またB‐29の波状爆撃で町が消滅する至り、その付近の居住者、特に子供・老人は集団で疎開することとなり、我が家も伯父のお世話で下阪本東南寺川先にある正木寛順大阿闇梨が根城としていた庵を一軒借り仮の住居とした。

昭和二十年に入って間もなく大阪は先のB‐29の爆撃を受け、殆ど消失。
我が家も焼けてしまった。

 

(続く)


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