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私の自動車五十年史 第四回

2016-12-01

カテゴリー:未分類



 

 

『私の自動車五十年史』 第4回  代表取締役会長 河村益孝

 

私の出身校の比叡山高等学校は天台宗総本山延暦寺伝教大師の導きを基として教えを為し、「一隅を照らす」「忘己利他」の精神を軸に教育をし、京阪神の商工会には評判の高い学校であった。
五歳上の兄が卒業した学校でもあり、自宅から往復五キロと近いこともあって、私立ではあるが入学を果たした。
元々勉強嫌いもあり、学年ではいつも中程の、上がるでもなし、下がるでもなしの成績を通した。
三年生になると就職組と進学組に分かれ、早くサラリーマンとして働きたい思いが強く、当然ながら就職組に入り、その時期を待った。
三年生の二学期がそれに当たり、夏休みが終わり二学期が始まると、企業や商店から男子○○名、女子○○名と、求人票が三年生の廊下に張り出される。
松下電器産業、三洋電機、東レ、三菱銀行、大和銀行、日本勧業銀行と大手企業を筆頭にずらーっと並ぶが、学校側も当然、有名企業には優秀な人材から送り込む。
十月に入っても一向に担任教師から声がかからない。既に試験を受けた!面接をした!という仲間の声の中にいると、少しずつ焦りが出る。
そもそも校長は勉学に励むものを高く評価し、彼らが松下電器を始め大企業に採用されたことが誇りであり、保護者会では常にそう口に出し、有名企業への就職がステータスになっていた。
私のような出来の悪いのは○○商店で丁稚をするべし!とはっきりと言う有様で、学校生活三年間で徐々に自らの成績を頭に意識して交渉をするようになっていた。
就職が人生を左右する分かれ道だという自覚も無いまま、ただ、自分の性格や考え方が、何に向いて何に役立つのか分かってはいなかったが、雇ってくれるなら、何所でも頑張るぞ!という気構えだけは出来ていた。
張り出された求人票の中から、㈱滋賀マツダモータースというのが何度見直して
も目に止まった

(続く)


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