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私の自動車五十年史 第二回

2016-11-01

カテゴリー:未分類



 

 

『私の自動車五十年史』 第二回 代表取締役会長 河村益孝

 

今でこそ外国人の認識には様々な想いを持つ人が増えてきたが、

赤茶の髪に肌白の青い目とくればアメリカ人として疑わず、

決してイギリス人・ソビエト人・フインランド人等とは思わず、

欧米には同じ顔立ち顔型があるにもかかわらず、 日本人の大半の固定観念がそうさせた。

と言うのも外国との鎖国を解き、自由往来の文化国家となり、

世界相手に繁栄を誇る強国となった戦前ではありましたが、

あくまでもアジア地域に限られていたようで、欧米人が常時何処にもいる状態ではなかった。

敗戦後、物不足で餓えていた日本人にとって戦勝国アメリカの文化は

難なく受け入れられ瞬く間に行き届き始めた。

当然、当時進駐の軍属には家族があり見晴らしの良い鉄条網の棚で仕切られたキャンプ地が

全国にあり、広々とした敷地に居住を始めたが日本人とは隔離されていて

買い物も学校も劇場もすべてが別であった。

進駐した頃の車に対する想いはまず軍用車であり足代わりの手段として

ジープがよく使われていて、小振りで小回りが利き即効性の良い利便性の高い車である事は

誰の目にもわかった。

家族が持ち込んだ車は当然米車そのもので、

キャデラック・ポンテアック・スチュードベーカー・フォードと、

細々と造っていた日本車とは比較にならぬ大型でビッグな造りの車でした。

第二次大戦を終えた米国は繁栄の絶頂期にあり、広い国内に町と町を結ぶハイウェイが

延々と伸び、幅の広い道路はビッグサイズでの車が丁度つり合っていました。

然し、島国日本の状況としての車の存在は、戦後復興に力点が注がれ、

乗用車1に対し貨物車が9と言う程で、時折走る国産車は今の軽自動車程で

大きな道路を必要としなかった。

キャンプ地の中は本国並に広い道路で米車を運転するのに不便はないものの、

キャンプ地を出て郊外を走るとなるとかなりの不便と不快を思わずにいられず、

地方に出る程その度を増した。

 

(つづく)


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