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私の自動車五十年史 第六回

2017-01-17

カテゴリー:未分類



 

『私の自動車五十年史』 第6回  代表取締役会長 河村益孝


校長を始め担任の教師までが、商店の店員として働く事を「丁稚」と呼んでいた。 日頃の成績の悪い者は有名企業や中小企業にも推薦されず、半ばあきらめつつ就くのが小企業や商店である。
 
マツダの受験という第一関門は通ったものの、採用されたわけではない。担任も受けるからには合格を!と成績を高上げしてまで押してくれているが、絶対!という保証はない。
 
「歴代の先輩は良くできた、出来の悪いお前を、熱心の名に於いて受験までは導いてやるが、あとはお前の運と努力だ」との担任の想いが伝わってくる。
就職組は、面接の受け方の講習会まで開いて貰った。
 
万が一マツダに落ちたら、小企業(○○商店)に入社して気に入られるよう頑張って働く覚悟は出来ていた。高校三年間、夏・冬・春の長期休暇はアルバイトに徹した。
 
高一の夏、初めてのアルバイトが兄の紹介で行ったごく近所のうどん製造卸会社で あった。小売り店やうどん店、一般家庭への配達が主な仕事で、真夏の炎天下、大型 運搬車と称する重い自転車で、坂の多い坂本界隈から十キロ以上離れた遠隔地まで運び、「良く働く」と評価は高かった。
 
二年生からは土木作業員として建設現場ばかりを選んだ。白米のご飯に豪華なおかずが魅力だった。日ごろ、粗末な食事が当たり前の私には建設現場の重労働も厩わず働いた。
 
最初のうどん製造卸屋では、日当125円 で、夏休みの39日間休まず働いた。友達の日当と比べると、どう考えても安いので、ダメもとで交渉したら150円となり、差額をいただけた。
 
土木作業の仕事はさらに過酷で、野洲川の砂利積み作業では、『オタフク』という超特大のスコップで一杯一杯と六トン車に積みこんで行くのだが、疲れでスコップ一杯の砂利が半分しか荷台に届かず苦しんだ。
 
何事にも粘り強く、耐えることに強いというのは何をおいても父親譲りであり、今でも感謝と誇りの念を強く抱いている。
        
 
 (続く)


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