私の自動車五十年史 第十五回
2017-09-15
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『私の自動車五十年史』 第十五回 代表取締役会長 河村益孝
父は怒り出すとしつこくて、くどくどと長く悪ロを罵った。
二度同じ注意を受けようものなら物が飛んで来ることもあり、その激怒振りは子供心にも手を焼いた。
トイレの電灯を三回消し忘れたら懲らしめにと電球を外され、半年ほど夜、暗い中で用を足した。
それは節約の精神が極めて旺盛で、無駄は「悪」と、くどく教えられた。
特にお金を使うことには多少にかかわらず厳しかった。
一年に二、三度、夕刻より小学校の講堂で、巡回の映画を上映することがあり、娯楽の乏しい田舎のこと、大人も子供も早くより楽しみにしていたが、入場料の三十円は何とか一度は出してくれたが、半年後の三十円は何時もいつもとばかり貰えず、寒い冬空に講堂の外窓にしがみついて、同じ金無しの悪ガキ達と盗み見したものである。
こんなとき母がいてくれたらきっと三十円を渡し、要求を聞き入れてくれたか、または兄共々一緒に観賞に来たのでは・・・と思ったりもした。
戦争での疎開先が定住地となり、着の身着のままの貧乏生活といろいろの苦労が崇り、先にも述べたが、昭和二十四年八月、長兄十九才、次兄十二才、私八才 を残し母は四十二才という若さで旅立った。
母の無念もさることながら、生活盛りの子供を抱え、困窮の窮みの中、父はただひたすら働き、食事の世話をし、針仕事にいたるまで、こつこつ器用に懸命に果たしてくれた。
子持ちのどん底貧乏生活故か、子供のことを思ってか、はたまたお世話してくれる人が無かったのかは知る由も無いが、後添えを貰うこともなく、朝早くから夜遅くまで働き通し、少々の風邪や発熱も厩わない我慢強く忍耐の人であった。
八十三才の生涯を閉じるまで、人様に崇められることは何もなかったが 私にとっては立派な父であったと誇れる。
(続く)
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