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私の自動車五十年史 第十三回

2017-07-15

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『私の自動車五十年史』 第十三回  代表取締役会長 河村益孝

眠るとは健康である場合、前後不覚に陥るの言葉通り、爆睡などと称して、目覚めても寝ていたことすら分からない状態から、病に罹り生死の境を彷徨う様な状態では、どこかの脳は働いており、今までの生き様を洗いざらい思い起こさせ、苦しめるようなこととなる。

そのことで目が覚めるのは軽症であり、重い場合は目覚めることなく苦しみ続けることとなる。

(八歳 小学二年の頃。物心ついて僅かの間の母子の間ではあるが、いろいろのことを記憶していて、頼まれごとを断ったり、何だかんだと困らせたことが走馬灯のごとく反省として襲いかかり苦しみ続けた)

一週間から十日あまり、四十度を越す熱が続き、平熱に戻ったかと思えば高熱にと高低をくり返し、法定伝染病だけに隔離された病室で、今のような点滴のないベッドに寝かされ、飲まず食わずの体は、それまで栄養失調的虚弱な体であっただけに痩せ細り、骨と皮になった。

県庁へ勤めていた当時十九歳の実兄が、母を亡くして一週間と経たない僅かの間だけに、死なせてなるものか…と長期の休暇を届け出て泊り込みで看病を続けてくれた。

その間、二度の献血を兄から受け、兄の願いが死んだ母に届き、母が死神に請い願ったのか、高熱も間隔が空き、また熱そのものも直り始め、何日かして正気を取り戻した。

兄十九歳、次兄十三歳、私八歳。戦後の混乱の苦しい中を抜けてきた家族だけに母の死は何よりも辛かった。

そこに弟までも死なせるようなことだけは…と兄の必死さは凄まじく、それだけに正気を取り戻したときの喜びは例えようもなく、隣のベッドの上で助かった、助かった、助かったと何度も何度も小躍りして喜んでくれた…と次兄からずーっと後から聞いた話である。

(続く)

 

 


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