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私の自動車五十年史 第三回

2016-11-15

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『私の自動車五十年史』  第3回  代表取締役会長 河村益孝

 

戦争と言う国家体力の消耗戦に国家予算を使い果たし、

国内のインフラは世界の主要国からかなり立ち遅れていた。

その一つが道路であり、戦後の復興には不可欠の一つであった。

今でこそ日本国中津々浦々、農道にまでアスファルトが張り巡らされ

地道を捜すのに苦労するほど完璧で、舗装率は限りなく百パーセントに近い。

それまでは、主要都市以外はすべて地道で雨の日はぬかるみ、

晴れの日にはほこりが舞い散り、道路沿いの民家はほこりの被害に悩まされ白く変色していた。

ほこり防止が当時の子供の仕事でもあり、

道路側溝に流れる水を柄約で汲み上げ撤いたものである。

復興には物の運搬が不可欠であった。

以前にも書いたが当時はトラックが主流でいすゞ・三菱の大型トラックもあったが、

圧倒的に三輪トラックが多く、

マツダ・ダイハツ・三菱・ジャイアント(愛知機械工業)・くろがねが代表的であった。

四輪車と異なり日本の戦後に三輪が普及したその理由は

(1)小回りが利く。(2)積載に無理が利く。(3)値段が安い(4)パンクが少ない等が挙げられる。

積載は、今でこそ2トン車は2トン、4トン車は4トンと、

道路法規が守られるようになったが、

当時の三輪の積荷は、2倍から2・5倍は当たり前であった。

そうした事情により道路もよく傷み、常時補修をしていたが、

傷みが早く道が波打つので、それを『そろばん道』と上手く表現した。

『そろばん道』に入るとスピードが出せず、そろそろ走るしかない。

相反してスピードを出そうものなら、車の振動が激しく会話の出来たものではなかった。

今までの旧道は使わず、バイパスと称して次々と新しい道路が全国に広がった。

それは地道のままであり、アスファルトになるのはズーッと後であった。

 

(つづく)

 

 


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