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私の自動車五十年史 第五回

2016-12-15

カテゴリー:未分類



 

『私の自動車五十年史』 第5回  代表取締役会長 河村益孝

 

とにかく良くても悪くても自ら動かなくては結果は出ない。自らの意思がそれがよいと思うなら・・・と職員室に向かった。
 
○○商店と違い、㈱滋賀マツダと言う大きな工場を持った会社だ。果たして担任の福山 稔先生、オーケーと望みを聞いてくれるか・・・心配で何所となく不安であった。
 
何度となく職員室の前を行ったり来たり・・・思案しつつ、ついに意を決して先生の前に立ち、受験の願いを申し出た。
 
すぐさま 返ってきた答えは「無理」の一言。「お前の現在の学業能力では難しいので他を探せ」と来た。「やっぱり」躊躇した勘は当たった。すごすごと職員室を後にした。
 
一日恐らく他の就職先を探したと思うが、またも滋賀マッダの前で立ち止まり、他に良いところがあるようにも思えず、「もう一度・・・」と頼みに職員室に足を向けた。
 
性格的に諦めの早い私が、もう一度頼むという様な事は滅多にないのであるが、余程思いが強かったのか、再度先生の前に立った。
 
「先生、どうしても受けさせて欲しいのです」と強く言った。日頃おとなしく目立たない存在であるが、自分の一生を決める大事な分かれ道である。
 
こんな事で引き下がっていいものか・・・。その強い意志が働いたことは確かである。 ちょっと間をおいてから、先生の口が開いた。「そこまで熱心に言うならやってみるか。」でも入社した先輩達は「よく出来た」と暗に私の成績の悪さを皮肉るかのような言い方ではあったが、受けられるだけで満足と職員室を後にした。
 
当時は毛筆書きの履歴書であった。そもそも毛筆などは慣れていないところに、右手に小2の折に罹った熱病で麻痺が残り、まともに筆が持てる状態ではなく、どの字も小躍りしていた。
 
成績簿は3が4に、2が3にと多少嵩上げが加えられており、推薦状は今まで褒められたこともないような言葉で綴られていた。
 
この時、純粋無垢の私は「社会とは」との意味が少しは知ったような気持ちになった。

 

( 続く )


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