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私の自動車五十年史/ 第一七回

2017-12-15

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『私の自動車五十年史』 第十七回  代表取締役会長 河村益孝

生まれて物心つくまで大阪に住んでいた折の僅かな戦中の思い出がある。 戦時中のこととて、外地での戦争の状況は新聞紙面上で知らされ、おおよその戦況は市民は皆知っていた。

二年、三年と長引くにつれ、軍需工場を持つ都市にB-29大型爆撃機が飛来、昼夜の別なく焼夷弾を落とすようになった。

また艦載機からの爆撃も日を追って激しくなったと聞く。

戦況が激しくなるにつれ、街中に住む人々も警防団を組織し、警戒を強めた。

とは言え、敵は一万メートルを越す高い空の上、迎え撃つ日本の迎撃機はB-29の能力に劣り、たかだか七、八千メートル止まりで、歯が立たず。

人的被害を出さぬよう、四六時中臨戦態勢で、昼夜も無い緊張状態にあった。

全国に張り巡らされた見張所から伝令が入り、それがその地方に流され、各町内にメガホンを持った警防団の人たちが、「警戒警報発令、警戒警報発令、至急近くの防空壕に入られたし・・・」とサイレンが鳴り響き、各々決められた防空壕に入り、敵が通り過ぎるまで待つというものであった。

昼はともかく、夜の警戒警報は親にとっては至難で命の重大さをイの一番に考えるもので、寝入った子供二人を起こし、防空壕に入り込むまでが大変であったと母から聞いた。

ふと目が覚めたら、暗闇の中を、大勢の人と母が走っている。非常用荷物片手に、一方を二男の手を引き、私は母の背中で、ねんねこにおぶられ、揺れていた。

その様相を、背中のねんねこから「母さん、あっちもこっちも火事や~」と伝えた。

暗闇の中のあちこちの火事は、異様に緊迫感が迫り、空恐ろしさはこの上も無く募った。

高高度を飛ぶ飛行機を打ち落とす策は無く、制空権を奪ったがごとくロッキード社製双胴機が青空の中を銀色の翼を太陽の光にキラッキラッと反射させながら悠々と飛び去るのを悔しい思いで見ていた。

 

(続く)

 

 


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